東リ演結成の呼びかけ  結成のよびかけ(1963年7月) 今年四月はじめ、静岡市に集った私たち、名古屋演劇集団、岐阜はぐるま、静岡芸街劇場、京浜協同劇団の四劇団は、<西日本リアリズム演劇会議>からの代表をふくめての話しあいの結果、<東日本リアリズム演劇会議>結成について、原則的な考え方の一致をみたので、準備会を発足させると共に東日本の演劇の仲間にこのよびかけをおこなうことを決めました。 私たち四劇団は、歴史も条件もそれぞれ異りながら観客との緊密なむすびつきを何よりも大切にし、その高度の要求を鏡に自分たちの創造と普及のしごとを展開しようとする共通点から相互に交流し学びあう兄弟の関係を今日までにつくりあげてきました。それは単に儀礼的な交際や一時的な連帯行動に止まらず、劇団活動全体の長所を共同のよろこびとし欠陥を自己の疼みとする、そういう質のものに成長したのであります。  私たちは、いま日本の演劇状況を展望する中で、正しい世界観にねざし、観客との固い結合を土台に、新しい演劇を生みひろめる努力が、職業非職業、職場地域等の枠をこえた択山の演劇集団によってなされているのを知ります。自分の観客に責任をもつこれらの活動がどんなに私たちをつよく支え、励ましてくれるか、はかり知れません。 私たちはあなた方未知の仲間ともしっかり手を結びたいと希います。日本の新しい演劇を、その伝統と観客に学びつつ創りだし、ひろくかえして行く運動がそれ自体求めるのは私たちの団結です。日本の演劇状況をあるがままに認め、その枠内での自由に息づくやり方から、私たちが自主的に演劇状況をつくりだすやり方に転換するために、最高の道徳−私たちの団結を現実に即して熱望します。  <東日本リアリズム演劇会議>のよびかけは完成した既成組織への参加勧誘ではなく、あなた方はどう考えておられるか、の問いかけであります。この組織は当然私たちの必要に即してつくらねばなりません。演劇がさまざまな意味で現実を反映するものであり、また現実に支配されるものである以上、私たちは日本の現実をつくりだしている政治に否応なく直面させられてきました。半世紀にわたる日本新劇史の側面が、その政治との関連史であるのも、演劇創造の根が新しい日本を生みだす国民的なエネルギーとその基礎を同じくしていたからであり、私たちの演劇がその頭に<新しい>と冠せ称されたのも、そこに深い意味がある訳です。  いま日本を権力で支配している日本とアメリカの支配層が、どういうプログラムをもちどうそれを進めているかについてこまかく検討するのは、このよびかけの主目的でありません。唯かれらが、日本の労働者階級を搾取と弾圧と分裂で骨ぬきにし、ひろい国民層と切離し、安保体制を軸に反共核戦争の方向に一歩一歩もって行こうとしており、そのためにどんな方法ででも、新しい日本の理念と行動を粉砕し、古い日本の永久的な維持に力を注いでぃる点を現実に即してつかむところから、輯劇と政治について私たちも共通の言葉と行動がもてるのではないでしょうか。  「私たちの側で、芸術と現実、演劇と政治の関連や断絶について語ってぃるうちに」、いわゆるケネディライシャワーコースが、思想・学術・教育・文化の領域でどうすすめられているかにつぃては、村山知義氏の<アメリカの対日文化攻勢と日本の新劇>(テアトロ236号)に詳述されてぃますが、そこにみるものは「かれらの側の思想文化のとらえ方の強力な政治性」です。一方では巨大なマスコミの支配を通して国民全体に対する植民地的な根のない文化頚廃的な消費ムード、政治的無関心をまきちらし、一方では学者文化人を資金や留学の餌でつって、政治と文化芸術を切りはなす芸術のための芸術−反共超階級的な思想や、人間疎外、挫折感とぃった敗北の思想、敵の所在を不明確にし、敵より味方をはげしく攻撃する分裂−エゴイズムの思想を浸透させています。  演劇状況の中でも、日生劇場、ぶどうの会や文学座の分裂、NADA結成等に引続いてあらわれた、こく最近の全国労演労音に対する不当な課税や調査のうごきは、そのまま、私たちの創造母体である演劇集団に向けられた攻撃の火ぶたであり、日本の新しい演劇の息の根をとめ、かれらの支配に屈服させる政策の明瞭なあらわれとして、まさに政治的に捉え対処する必要があると思います。私たちは、これらの特徴的な事件の一つ一つを切りはなして局部的にみるのでなく、自己の演劇活動、職場地域の文化活動、更に国民生活全域での経験を土台にかれらの政策を判断すべきではないでしょうか。  そして、こうみてくると、私たちが演劇生活の日常の中でかかえている、一見集団内部の問題の殆んどもその根をふかく洗いだしていくと、必ずこの根本的なかれらの思想−政策にぶつかるのに気づくのです。たとえば、NADAに関して、アマチュア演劇の官僚統制という疑惑に対して創設にあたった善意の人々は思いすこしだと一蹴していますが、地方では助成金がほしければNADAに加盟せよと称している教育委員会もでており、この善意の人々の中にはかつて戦争中、やはり思いすごしだと説きながら産業報国会の演劇運動なるものをおしすすめている人のいることは記憶しておいていいことです。全国民的な反対−疑惑を無視して新安保条約を成立させ、いままた日韓会談やアメリカ原子力潜水艦の寄港やF105D機の配置を、没義道に暴力的に押し通そうとしているかれらが、文化−演劇のジャンルでは、最低思いすごしを裏切るほど紳士的であり、没義道な暴力的な行為はしないだろう、と私たちは期待すべきでしょうか。  1960年、安保破棄の闘いに新劇人が結集したことは、日本の演劇史に誇り高い一頁を加えました。政治の危機にあたっての統一行動は国民をはげますと共に、新劇本来の運動の側面を蘇らすものとして、国民の胸に新劇人会議の存在を焼きつけました。そしてまた私たちも、あの時期をピークとするさまざまな経常を通して、自分たちの演劇について徹底的に考えさせられることになりました。自分たちのしごとが誰の何のために必要なのか、その課題を果たすために何が必要なのか。という一見素朴な問題を一つ一つの仕事でときほぐし裏付けてくる中で、私たちは改めてそれぞれの観客と新鮮に触れあったものです。それは、劇団から与えられるのを待つのではなく、劇団に与えるもので充実した観客であり、しかもその要求は回を追うごとに質も高く量も多くなってきました。私たちが業余でやっているなどに頓着なく、高い思想性、魅力のある舞台が望まれる、その中で、四つの劇団は互いに求めあうように集まったといえます。私たちは、新しい日本をつくっていく国民の中で、その人々に観てもらうための演劇をつくっているのです。  主体的にはまだ弱いとしても、実はそれぞれの地域で責任のあるしごとが課せられています。地域それぞれの特殊性があり、各演劇集団の特色はあるとしても、観客に責任を負う立場での全国的な共通した命題はたてられるし、又たてなければならないと思います。専門劇団に学ぶという一事についてもいま、全国各地にすすめられている演劇集団と地域の文化・労働・民主組織の提携による創作劇上演運動についても、地域劇団と労溝の結びつきについても、こういう視点でとらえられ全国にかえされる必要があります。  芸術のしごとに統一戦線など、第一できもしないし、無用だという意見があります。この意見のでる根拠は、組織や運動の側面は統一できたとしても、芸術団体として肝心かなめの創造上の側面で統一などできっこないということが一つ、劇団や演劇人同志の理論的な、又はそれより多くの感情的な対立がちよっとやそっとでほぐれそうもなく絡みあった現状に、サジを投げたところに一つ、もう一つは狼が喰うのは仔羊で、自分は喰われっこないと思い込んでいる仔豚みたいな錯覚にあるのではないでしょうか。  勿論、舞台芸術の創造上の問題が、組織的に左右されたり、多数決で正否をきめられたりする筈もありませんが、私たちの考えでは現在創造上の鏡は観客だなどといっても多くの批評にしてもおそろしく規準があいまいな上に総体乏しく、同時に劇団同志互いに影響しあい学びあう気風が全然欠けてぃると思ぅのです。地域職場演劇集団との交流などといっても実は何を求め合っての交流かはっきりせず、専門劇団では素人さんはどうも被害者意識がつよすぎるなどといい、素人さんの方では奴さんたち切符を売りたいから来たんだなどと言い合っていたのでは仕方がないのです。  統一戦線の問題について、それが私たちの観客と演劇のために緊急必要だという前提より、それが困難だという副次的な条件の方を優先して考えることをやめたいと思います。日本演劇の創造と普及のパースペクティブをくっきり把握したいのです。そのためには私たちの活動を排他的に散発的に、しかも後手後手にでなく、それぞれの地点に根をはりつつ、全国的な展望をもって互いに刺激しあい、学びあいながらすすめる必要性をつよく自このような中で、昨年夏、関西芸術座、山口はぐるま座の提唱で<西日本リアリズム演劇会議>が、近畿、中国、四国、九州地方の十七劇団によって結成され、文化の敵を明確にして斗う、民族と近代の相互関係を正しく捉える、リアリズムの基調を現実変革の思想におく、大衆と結合し普及による向上をめざす、創造発展のために全国的視野と地域定着の姿勢を統一していくーの五点を全体の統一と運動の目標としてうちだしたことは、つよく私たちを刺戟すると共に、同会議が志向する全国的結集をめざしての私たちのプログラムを組む必要を痛感させました。  私たち四劇団は<東日本リアリズム演劇会議>結成につぃて積極的に一致すると同時に、これが各地域でめいめぃの観客に責任をもって運動をすすめている演劇集団全体に潜在する要求でもあると判断しまLた.これは、東北・関東・東海のいくつかの集団と話しあう中で、ますますはっきりしてきたことです。私たちはこの仲間たちの意見に基いて会議の結成は既定方針に賛成するという受身の姿勢にょるのではなく、それに合致する会議を生みだすために集団めいめいの考え方−要求をその場に正しく反映すべきであり、その場合次の内容についての私たちの意志統一が会議結成の軸になると考えたのです。  (一)平和と独立、民主主義の確立をめざす日本国民の斗いと、私たちの演劇創造および普及の運動をかたく結合していく上での、実践的な統一。  (二)劇造上の流派や手法としてでなく、歴史と国民から付託された私たちの斗い、芸術思想としてのリアリズム演劇の認識と追求についての統一。  (三)舞台と運動の成果欠陥、芸術の様式と方法等についての、同志的な批判と反批判、交流と援助をさかんにしてゆくための統一。  私たちはこれらの問題点をフランクにしかもねばり強くきわめ合って、部分の差異に目をうばわれず、弾力のある強い統一体をつくりたいのです。各集団のもつ歴史構成、特色、芸術様式等の諸条件を尊重しつつ、会議の機能を高めて全国的な創造と運動の展望をひろげ、相互交流を通じて兄弟的な批判と援助の気風をつくりだすなら、観客の高くきびしい要求にこたえることができるに違いありません。それは又<西日本リアリズム演劇会議>に呼応する東日本の演劇集団の結集という意味で、わが、国の演劇状況にひとつの新しい大道をひらくことにもなるでしょう。  このよびかけがあなた方の集団でのはなしあいによって、さらに豊富な内容に発展し、あなた方の参加で<東日本リアリズム演劇会議>の一層の充実がかちとれるよう、期待します。 名古屋演劇集団 岐阜はぐるま 静岡芸術劇場 京浜協同劇団